昭和四十七年五月十三日 朝の御理解
X御理解 第六十八節 「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うて           はならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに           ありがたそうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ           神にうそを言うも同然じゃ。柏手も、無理に大きな音をさせ           るにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、           大声をしたり節をつけたりせんでも、人にものを言うとおり           に拝め。」
 その辛抱こと身に徳を受ける修行じゃと、徳を受けるという事は、信心だというてもいいと思います。
 合楽では、徳を受ける事の信心だけが説かれておるように思います。ですからまあ信心ちゃ難しいというふうに聞こえるかもしれませんけれども、それが身に徳を受ける修行という事になる。ですから、徳を受ける事の根本姿勢というのは、辛抱です。 三代金光様のお言葉の中にある「信心には辛抱する事が一番大切でございます」とあります。これは信心という事は、そのまま徳を受ける事だと頂いてもいると思います。信心には辛抱する事が一番大切でございます。一番大切なもの、しかもそれが実意丁寧というものが内容でなからなければならん事は勿論です。
 又、実意丁寧神信心という事は、もう、そのまま辛抱が身につかなければ、出来る事じゃないと思うですねえ。今日は雨が降るから、風が吹くからと言うだけではなくて、今日は一つ私の失敗談を聞いて頂こうと思う。
 昨日、福岡支部の大祭でございましたから、帰らして頂きましたのが丁度、八時ちょっとまわったところで、ここではもう八時の御祈念がはじまっておりました。
 私は御祈念を頂きたいと思ったけれども、大変体が疲れておったから、只、お礼だけさせて頂いて、御祈念半ばに立たせて頂いた。それからいつもはお風呂を頂いてからやすむのですが、久富さんがいつも御用して下さいますから、そげんしょったら久富さんがやすまれる時間が、それだけ少なくなりますから、早く済ませて繁雄さんも早くやすまれるからという人間心もあってから、もうすぐやすませて頂いた。
 そして一息もやすませて頂いてから、やと眼がさめて何か気にかかって仕方がない感じがするんです、それから起き出してここへ出てきました。
 そしてから、本当におかげ頂いてよかったなあ、今朝こそ実意丁寧神信心の事を頂いておりながら、何と実意の欠けた事であろうかと。実意とはわがまま横着のない心と教えられておられますね、三代金光様は。
 ある青年の方、成人式を終わったばかりの方が、お礼お届けにみえてから、「これから私も大人の仲間入りをするわけですが、どういう心がけで信心生活させて頂いたらよろしいでしょうか」とお伺いされたら、金光様が「実意になられたら結構です」とおっしゃったそうです。それで「金光様、実意になるという事は、どういう事でございましょうか」というて、又、重ねてお伺いさせて頂いたら「わがままと横着をせねば結構です」とおっしゃった。ですから私共の心からわがままな心と横着な心をとり除いたら残るのは実意という事になりますね。
 いわゆる朝こそ実意丁寧でなからねばならんという御理解を頂いた。あれが昔の私であったらどうであろうか、丁度御祈念の半ばに帰って来たのですから、御祈念を頂いて、そして参拝になっておられる方達に、今日の福岡の御大祭の模様でも確かにお話したに違いないのです。
 けれども、疲れておるという口実でね、もう、いうならわがままであり、横着なんですよね。それで心にかかるような事を頂いて、もう、それから先はやすまれない事になった。もうこのように信心というのがちょっと姿勢を替えただけで、もうこのようにお気付を頂く。そし私は、ここへ出て来らせて頂いてから、もう本当におかげを頂いたんです。というのは、もう御広前はまっ暗になって、誰かが御広前で御祈念しとるのです。誰か修行生の方かと思ったら何と幹三郎です。
 まあ、これは私が感じたんですけれども、まあ当分は、学院に参りますから、今日は最後だというわけでしょうねえ、幹三郎にとっては、昨日の夜が最後である。だから何か自分の心に頂きたいというか、まあ神様の前に一晩でも御祈念しあかそうかというようなふうがみえたんです。一生懸命御祈念しとりました。
 あの人が私の三時半の出任させて頂くのに、丁度一年五ケ月間これこそ毎日、おかげ頂きました。○少で他所に行っとる時は別ですけれども、教会におる時はもう、○少の御用もしとりますから何日間もやすまれない時があっても、やはり出て参ります 一生懸命今日の御理解のところから申しますと信心辛抱が出来たわけですねえ。
 しかも、泣こうごと眠い時があったろうけれども、やはり、それこそ雨が降るから風が吹くからというて、ここのところを辛抱しぬいたわけです。
 今日学院に発ちますからその最後の一夜を、御神前に祈りあかそうといった気持ちでしょう。もう、本当におうた子に教えられるというですけれども、私は今朝から実意丁寧だと人にも聞いて貰い、自分もそうだと思うとる。本当に御無礼しとるにもかかわらず、もういよいよ明日は学院入学をひかえて一生懸命神様に打ち向かうとるという事、信心の姿勢というのはいつもこうであらなければならない。
 私はその事が有難かったから、もう改めてお詫びさせて頂くという事よりも、お礼を心から申しておりましたら、御心眼に頂きますのが、寒山捨得という、仙人の修行をする師匠と弟子が箒を持っておるという中国の有名な絵があります。それが昨日のは、寒山捨得と書いてある。その寒山捨得という事を頂いて、私は、昨日の幹三郎と私の姿じゃろうかと思うたけれども、これは寒山が師匠なんですけれども、寒山の方がどうもおかしい感じなんてすけれどもね。
 そして私は、思わせて頂いて、信心修行させて頂く者の、いわゆる根本姿勢という事を辛抱という事を申しましたがね、勿論信心修行と言うてもです、お徳を受ける信心修行です。身に徳を受ける修行じゃとおっしゃる、身に徳を受けさせて頂く為の修行なんです。
 もう本当に人が見ておるからとか、いったような事じゃないですねえ。もう、だ-れも知らん中にです神様へ打ち向かうて行く心がです、しかも実意丁寧に、しかもそこんところを、気分のよか時だけではない。それこそ泣く泣くといっいたような時でも、その辛抱しぬく事がです、身に徳を受ける修行じゃと。
 気分のよか時だけなら誰だって、それは夜どおし御祈念するといった事も有難い。 本当にもう御祈念をはじめたら立とうごとなか時がありますよ。ではない、もう本当に今日は御無礼しょうと昨日の私じゃないですけれど、確かに体も疲れておる、もうとにかく早くやすみたいという気持ちがいっぱいですから、夜の八時の御祈念の半ば私は立って、やすませて頂いて、それはもう疲れとりますから、ぐっすりやすみましたけれど、やすんだ、ほっと眼がさめた、どっこい眼られん。
 そこで気にかかる事は、今朝から頂いた御理解であり又は、相済まん事だったなあと、本当に実意を欠いておったなあ、いうならば、わがままである、横着である。
 昔の私などは、もうそこんところを一番大事にしたんですよ。もう、ここんところを本当に大事にしました。いうなら、ここまでは皆さんなが辛抱出来るけれどもこれから先が出来んところを大事にする。それが身に徳を受ける修行じゃとおっしゃるのですから。
 これも、福岡でもう二十年も前の話ですけれども、毎月私がお話に参っとりました もう一晩中、お話させて頂いて、朝の一番の電車で帰って来るのです。ちょっと時間があるから、ちょっと横になろうというたのが駄目ですね、ゴ-ツと電車の音が聞こえてくる。あら一番電車がもう通りよると思うたけれども眼うしてこたえんから、そのまま眼っとったら、三代金光様のお声ではっきり頂いたんですよ。
 「神様が見ておいででございます」というお言葉でした。神様が知っておいででございます、あなたが昨日、一生懸命信心のお話をさせて頂いて、眼ってない事は神様が知っておいででございます。ですから今日はゆっくりおやすみなさいとおっしゃるのじゃないのです。夕べやすんでおらん事は神様が知っておいででございます。それを例えば辛抱して、起きて行く。それが身に徳を受ける修行でございます。という事だったと思う。もう、それこそびっくりしてから起きて帰らせて頂いた事があります ですから、これから先、もう、夕べ眼っとたんのは神様も御承知じゃろうけんと、御承知なのです。だからこそ、そこを辛抱しなけりゃいけんのです。
 わざわざ皆さんが夜の御祈念にお参りになっとるじゃないか、それこそ教会長の私が途中から引き上げてやすむなんて、そういう実意を欠いた事でどうするかという事だったとこう思うです。ごたるけれども、その縁の下の力持ちだからこそ、いよいよ力を受けていくのです。誰も知らない影のごたるけれども、それこそ。神様が見ておいででございます。そういう世界に私共が、信心辛抱しぬかせて頂くという事がですいわゆる徳を受ける修行じゃという事になるんです。しかも、いつも清まろうといういわゆるお掃除道具というものを、いつも身からはずさないという事。
 幹三郎と西岡さんが今日、いよいよ学院に発たして貰います。これは二人に対する一つの【】的な御理解でもあろうと思います。これからいよいよ金光様のお膝元で修行させて貰う、どっちにとか、迷う時には必ず分の悪い方をとれ、それが修行だぞと影のほこのごたるけれども、いわゆる縁の下の力ものでもよい。損の方をとるのだぞと、信心修行というのは楽な物見遊山的な山登りでなく、それこそ厳しい寒の山に登ようなものぞ。これが信心修行の根本になるのぞという事を二人に教えて頂いたような気がするのです。昨夜のその事から。
 私の、いうなら昨夜の失敗談から、そういう事を頂いた、そして二人に対するところの修行に出らせて頂く、いうなら【】の言葉として、この寒山捨得という事を頂いた。しかも今日、私が教典で開かせて頂いたら、この六十八節であった。しかもだから今日は特に、その辛抱こそ身に徳を受ける修行じゃというところに焦点を置いて聞いて頂いた。しかも六十八、もう徳を受けておってもですね、それにプラスしていよいよ広がっていくおかげを頂く為にはね、もうこの位おかげを頂いたから、もう夜の御祈念なんかさぼったっちゃよかといったような事ではいけないぞと。
 成程、疲れておる事は神様が見ておいででございますという事をねいつも。だからとにかく、いつもそこのところを、辛抱させて頂くという事がお徳を受ける信心修行の根本の姿勢にならなければならないところだと思うですね。
                        どうぞ。